実は一日過ぎていました。
というのも、連続更新だとか思ったりしていたのに7日の日記が無い訳で。
いやー、一日過ぎるのが速いといいますか、むしろ振り返ると速いのですね。
この一年省みること早10ヶ月が経ち、残すこと2ヶ月に成りますが、一日一日、また
その過程は非常に長く感じても、振り返るとあっという間というのは人間の記憶能力に
依存しているのでしょう。
(ここからそれっぽい話に急に移りますが)すなわち、日々の営みを如何に人間が軽視して
いるかという事実に繋がるのです。
つまりは、一日を過ごすということはある程度年と経験を抱えて来た人間にとって、
経過的な儀式としての意味合いしか持た無いということです。
人それぞれ24時間で行うことは違うにしろ、その行動はパターン化され潜在意識化で行っている
動作が多いのではないでしょうか。
例えば、朝起きて会社に行って帰ってきて寝るといった日本人男性の平均的生活習慣は
もはや誰しもがパターンに則っていると言ってよいでしょう。
このことを意識的に率先している人はまずいないのではないでしょうか。
時間軸的に若干の変動はあったとしても、その変化量自体に異なりはあるように思えません。
このままでは電車に乗り遅れるから急ぐという考えは紛れも無く意識したものでしょうが、
その根底となる何故乗り遅れてはいけないのかという、社会的なモラルは既に無意識の内に
自己意識下に格納されている訳です。
会社なんて遅れてもいいやという意識が無ければ、上のようなことは起き得ません。


つまるところ、完全にパターン化された日常において突発的な出来事、すなわち変異は
突然変異に頼よざるをえません。
これは大人に成るに連れ、もはや代わり映えのしなくなった日常を脳の深い意識化に
記憶するための良い要素となる筈です。
よって、一年のうち無意識下で行われる大部分の記憶は曖昧なものとしか脳に定着せず、
突発的な変化のみが記憶に残される訳です。
このことは生命的な突然変異に非常に良く似ており、DNAの分裂時の異常が変異体を生むように、
日常に起きた変異がその人間を変化させることも十分考えられるでしょう。
人間の自己とは、それまでの経験や学習によって得られた知識を元に構成されていることは
言うまでも無いですが、その変異が十分今後の自己を変化させる起爆剤になる可能性がある
ことも明瞭でしょう。


結局、代わり映えの無い日常に望むものとは、その言葉通り日々単調に過ごせば突発的な
変異をただひたすらに待ち続けるより他ならないのでしょう。
しかし、偶発的な変異は神のみぞ知ることが許されているでしょうが、人間には人為的な
変異を生み出すことも可能なのです。
人為的な変異、即ち、自己の補完を行うことが出来るかどうか。
これすらも人間は無意識下で自ずからコントロールしているのでしょうか?
だとするならば、自身は自己であり続けることを望み、その変化は全て受動的な変異に
よってもたらされる…
逆にそうでない事を望むのか。それもまた己なのでしょう。全ては己の為に。
ラプラスの悪魔の様なものです。
完全なる突然変異などというものは存在し得ないのでしょう。
全ては有限であるからこそ、可能性は不確定性を秘めた無限なのです。