最近どうでもいい話しか更新して無いというか、そもそも他のカテゴリーがマニアック過ぎる
というかね。
まぁ、手軽にネタとして更新するには実際、誰かがまとめてくれた話を元に感想などを述べるのが
手っ取り早い訳だ。
例えばPC系のレビューについて思ったことを書けば、それだけでネタの一つになる。
以前も書いたけど、元々自分の思ったことなどを書く、文学系?サイトだった所が、気付いたら
レビューサイトになっていたというのは実際良く見かける。
ただねぇ・・・そのレビューがあんまり参考になら無いというか、刺激に欠けるというか。
スタパ斉藤氏の様な、個性的かつ、一般人が滅多に買わないようなものから最新機器までの
レビューは実に読み応えがあると感じるのだが、所謂シロートの文章だと、無難な線までしか
書き表されていないような。そんな気がする。もしくは逆に酷評しまくってるか。


しかし、自分の考えというもの自体も、そもそもは外部からの情報や考えなどをベースとして
編み出されるモノな訳で。新聞などはいい例で、誰かがまとめてくれた文章を手軽に読むことが出来る。
それで得た情報について、感想を書けば、それは立派な自分の意見だ。
対して、自分のみ、もしくは特定の人物が経験・体験した事実のみをベースに感想を書くことは
少々違うだろう。それらは前例が無かったり、合っても少なかったりすることがしばしばだ。
これを自分でまとめ上げる事は、無論文学的センスがあるに越した事は無いのは言うまでも無い。
ごく一部のサイトやBlogのみ人気が出るというのも、それは著者の技量を示す良い値と見なせるだろう。
では、彼ら以外は書く意味が無いのか? 個人的にはそうとも言い切れないと結論付ける。
現在、大規模検索サイトなどのキャッシュなどで、一旦配信してしまった情報は一定期間or
場合によっては保存を繰り返さられる事によって半永久的に残ってしまう。
今は全く価値の無い文章でも、誰もが経験したことの無いことについての感想であっても、
未来的に誰かの役に立つ可能性は100%無いとは言い切れないだろう。
所詮自己満足の世界ではあるものの、自己の存在を証明するorした手段としては結果的には
十分では無いだろうか?

どうにも自分の場合一旦書き始めると持論を延々と展開する、いわゆるヲタ的文章構造しか
書けない様で、日に日にやる気が無くなってく次第であります。
いや、書きたく無い訳じゃないんだけど、書くのに時間が・・・まぁ、数分だけど。


しかーし、その数分がヤフオクで命取りになったり、某巨大掲示板の祭りに参加できなかったり、
アニメ見逃したりとまぁ、色々障害が出る訳ですね。


そういえば、最近気づいた事にヲタっぽい奴は必ず相手を〜さんと呼び、語尾に〜ですよ!と付けるようです。
この傾向はどちらかと言うと常にニヤニヤしている奴には特に当てはまるらしい。
俺が気づいたんだから間違いない。
てか俺の周り及びアキバ及び車内にはそういう奴しかいなかった。


さて、アニヲタに限らず・・・あとはエロゲ位しかないが・・・語尾に特徴があるのはそのキャラの個性を表に
出すには一番容易な方法なのでよく用いられる訳ですが。
それを萌え要素として使うこともしばしば。
そう考えるとヲタは自分がヲタだっ!ってことをおもむろに表すために語尾が特殊なんだろうかと
考える訳ですな。
自分の文章を書いてる途中ですら、『訳です』ばっかだなぁと思うのだから、彼らが気づいていない
筈は無かろう。自分はどうなのかと聞かれれば、『〜訳です』って書くのは自己主張を間接的に強調し、
相手に伝えるための情緒的初等文学手段なんだってことにしておけばいいと思います。
枕詞みたいなもんだってことにしておけば、何時でも使える訳です。ほらね。
で、話を戻すと、ヲタは自分で気づきながら『〜何ですよ』って言ってるのだろう。多分。
ヲタは最近の風刺を嫌う傾向にあるので、『〜じゃねーの』とかは日常的には常用する文句と
して使わないのですね。掲示板で書くときは書くんだけど。それはそういうもんなんだなぁ。
つまり、なんかジャラジャラぶら下げているようなお格好をしている人々に対する、明確な
ヲタであるというアイデンティティの表れなんでしょう。
リュック背負ってるのとかもそうなんだろう。ヲタに言わせれば使いやすいから何だが。
一見矛盾しているようだが、実際アキバにリュックじゃなくって他の機能的なカバンで行こう
とは思わないのもまた事実。最近トートの人も増えてるけどね。彼らはアキバ歴が薄いな。
アキバでの買い物は常に戦争。どんなお宝が何時放出されるかは分からん訳ですから。
常に大容量の装備を持つことは必須なのです。しかし、最近はそれもハード系のヲタ限定なのかなぁ。
同人誌漁ってるような人はトートなのかも知れん。
初めは機能性だったものが、何時しかヲタの象徴になる。こういう流れなんだと思います。
それを、ヲタ自身否定しないところが、流行に流されるファッションオタとは違うところでしょう。
まぁ、ヲタ業界には滅法動かされるんだがな。
やはり、境界線的な表れを具現化したものが、ヲタのヲタらしさなのだろう。
一般人気取りでもそれは知らずのうちに表に表れているのだろうね。
それが無ければヲタはヲタに有らずってことになるのだからね。ヲタと呼ばれること自体が既に
部分集合と区別されていると言うことなのだから。


何の話をしようと思ったか忘れて、気が付いたらヲタの文化論になっていた。

アニメまとめ

さて、戦闘シーンや回想シーンなどに気合を入れてるBLOOD+ですが、マニア受けは上場のものの、
一般人受けがいまいち宜しく無いらしい。
まぁ、種の頃も「戦争がどうのこうので子供に見せるにはあーだこーだ」と言われ続けていた訳ですが。
それでも種の監督は見たくないなら見させるなって言ってましたからねぇ。
企画のT氏は酷く落ち込んでいるそうな。折角気合入れて翼手との戦闘シーン作ってるのに、教育に悪いと
言われてはそれは落ち込むのも当然と言えよう。
初回であんなけ血まみれになってぶった切ったらなぁ… 最近の犯罪増加もそう思わせる要因なのだろうか。
昔も戦争アニメなんて腐るほどあった気がするんだが。
それがあの時間にやっていたかと言われるとなんとも言えないけど。少なくともエヴァは深夜だしなぁ。
母親がアニメオタクのアキバボーイは絶賛しているとT氏に伝えておいてと電話で話していたが。
半ば名誉毀損だろ。まぁ、否定は出来ないが。
今後面白い展開になるらしい。途中打ち切りにならなければいいけど。
ブラックジャックのようにグロシーン皆無でやり続けるのがいいのか、はたまた血まみれぶった切りでも
真実を教える方がいいのか。人によりけりですな。
ブラックジャックもあれで医学を冒涜してるとか言う人は言うしねぇ。原作では死んでる人間が、
アニメ版は生きてるしね。ってかあれって全員死んで無いのだろうか。最近見て無いから分からんが。
昔見た限りでは原作のブラックジャックの心理面は皆無で、単に金にがめつい医者にしか見えないのよね。
アングラさが皆無で、BJが金を何故欲し、何に使うのかが描かれていないのは故手塚氏も望まない展開
だろうな。BJの儚くも孤独なところがいいのにね。


地獄少女は毎回死んでるのは相も変わらずで。あれはマジで依頼サイトとか出来て暗殺が横行しない
のか心配なんですが、今のところ表には出てきていませんね。
少なくとも、呪い系サイトとか出来たんじゃないでしょうかね。
「誰々を怨む、死んでしまえ」
といった内容を書くサイトとかキモ過ぎますが。見たくないね。
これで自分の名前発見→鬱病→自殺のパターンはありえるかも知れん。
それとなくアドレスを知らせるのがポイントだな。
呪って自殺に追い込むっていうのは呪い事態に物理学的根拠が無いので、名誉毀損にならない限りは
法的には罰せられないはず。
あ、そうすると自分が呪われてるって分からないか。自分だけがわかる間接的なものでもないと
駄目ですね。まぁ、呪いの科学的証明は暗示による精神不安定状態を作り出すことによる、
通常生活との差を生み出すことによる障害ってのが一般解釈なんで、出来なくは無いな。
で、地獄少女事態の話ですが、ようやくサブキャラがメインとして出てくるようになりましたね。
後残りも数話だと思いますけど、そろそろ展開が欲しいですねぇ。
前回もギリギリのところで地獄に逝っちゃったし。HappyENDが見てみたいもので。
BADEND繰り返しているみたいで、悲しくなりませう。
大分飽きている人も多い気がする。個人的には同じパターンでも好きだけど。
笑うセールスマンも話自体は違い有れ、最後は「ダーーーッ」で同じだからな。
駄目人間になるか死ぬ?かのパターンだった気がするのですが。


ローゼンはカナリアが出てきてネタを振りまく回かと思ったら、最後は意外と真面目だったり。
エプロン真紅がえちぃなぁと思いました。無駄に。
最後のみっちゃんコスプレショーはあれは大きなお兄ちゃん受け間違いない。GJ。
むしろ常にあの服でいればいいのになぁと思った。それじゃただのエロゲーか。しかもロリ過ぎだな。
最後に水銀燈がちゃんと出てくるのが意外だったり。
ローゼンもそろそろ佳境のような気がしますね。次回8話ですから展開があるような。
水銀燈がどっちに付くのか気になるところ。
つーか始まったと思ったらもう8話ですか。また楽しみがなくなるのね…
BLOOD+はあと4分の3はあるとはいえ、火曜日に見るのが無くなってしまう…
そういえば蟲師もか。新しいの何が始まるんだろうか。
今回の蟲師まだ見てないな。相変わらずクオリティー凄いんだろうな。

早いもので12月ですか。去年はこの季節は嫌でしたねぇ。
まぁ、勉強していたかというと実質していなかった気もしますが。
終わったことなので良しとしませう。
後輩が例によって浪人して今年受験ですが、どうなることやら。
人事ながらそれなりに気になりますな。現役の時とーこー大とKOだけしか受けてなかったからなぁ…
ある意味そこが実質的に気になるところ。今年もそれをやるのかどうかと。
受かればいいけど、落ちたらどーすんのかしらと。
2浪って多分重度の鬱病になると思うんですがどうなんでしょうか。


そういえば、高校の時に誰がいたか全く記憶に無いんですよね。
特別困ることも無いですけど。
最近気が付いた事実に、夢の中に出てくる登場人物が恐らく小学校止まりの記憶の中でのみ
構成されている気がするのですが。
全く知らないという人間が出てくるということは稀だと思いますが(というより夢の
カニズム上記憶が元の筈なので)、最近の極知っている少ない人間すら登場頻度が至って
少なく出てくるのが小学校時代の知人友人ってのもねぇ…
なんだか悲しいものもある気もしますが、下手に出て来られて、起きた後に
「あいつ誰だっけ」となるよりかは知っている方が良いことに越したことは無いのですが。
むしろ前にも書きましたけど、夢を覚えていることの方が稀なので、知っている人間が出てくる
夢の方が記憶に残りやすいというのもあるかもしれませんが。


夢なんだからもっと自由なことをさせて貰いたいものですが、どうしてこうも現実に沿った流れなんですかね。
ありえない構成なのは極稀で、そういうのは大抵覚えているんですが、日頃見る夢は余りにも
毎日と変わらないのでつまらないという訳です。
まぁ、夢なのでそんな上手く行く訳ではなく、所々チグハグで矛盾してるようなことも多々
あることはあるのですが、電車とか乗っててふとあれは何だっけと思いを寄せていると、
それがまぎれも無く夢の話だったと思い出すこともあるのですね。
つまりは、夢の大まかな流れはシナプス的に既に脳内で作られており、現実のちょっとしたきっかけで
回路が構成されるのでしょう。そうすると現実にあった記憶と夢との区別が付き辛くなると
いう訳ですね。
3億円当たったとかなら夢だと判断できそうなものの、夢の中で何時に起きてどうしたとか
いう様な細かな設定を記憶下に置かれると、実際そうしたのか夢なのかの区別のしようがありませんからね。
では、そういった夢なのか現実かの区別を人間はどう理解すればいいのでしょうか。
現実も夢も結局は脳内で理解される出来事であって、人間が物理的に定義することなどは
出来る筈も無いでしょう。
出来て、起きていたら現実、寝ている状態を確認できたら非現実ってことを証明する程度
じゃないでしょうか。
それは証明と言うより、相対的な立場からどう見るかの定義だけの様な気もしますがね。
ましてや宇宙空間や量子力学に代表される非現実的な次元空間なんて想像による定義
でしかない訳ですからね。
非科学的になるようですが、人間のできることなんてほんの些細なことなんじゃないですかね。
ひょっとしたら、何も出来ていないのかもしれませんし。
自分の存在が何であるかすらの定義すらあやふやで、存在意味のそれすらも分からないのですから。
ラプラスの悪魔に代表されるように、人間は自己とその周りを取り巻く環境の極僅かしか
この高度文明下ですら理解していないのですからね。


ですが、夢は夢であるからこそ、その価値があるのでしょう。
起きている状態を現実と位置づけるという定義に基づくからこそ、その価値は色あせることが無いのです。
うつつまくらのようなものがあれば、日々に代わり映えのある華やかさを求める事など到底
ありもしないのですから。
せめて夢の中では、華やかさを望むと願うことにしましょう。

  • なんか無駄に暑いんですけど。いや、外と部屋の温度差が暑い。

これは夏にも言えることですが、基本的にこの国の気候ってのは過ごし易いというのが
極僅かな期間しか存在しない訳で。
しかし、昨今それすらもおかしくなっているらしい。
いわゆる温暖化が目に見えて来るようになりましたねぇ。
こうなったらもう終わりでしょう。大気中の代替フロンはぶっ壊れませんからね。
今後下がることなく上がり続ける一方なんだろうな。
地球はある程度はサイクルと見なしていいのでしょうが、代替フロンのせいで非可逆的な
変化をしているのでしょう。オゾンも壊れる一方ですね。
大体CO2の数千倍とか数万倍も温暖化係数の高いやつを撒き散らしたのがアホなんですよね。
過去には温暖化という概念が無かったのかもしれませんが、どう考えても安定剤として作ったものを
空気中に放出したらずっと残るって事に気づくと思うんですがねぇ。
それがどういう効果をもたらすか位の基礎実験はしていてもいいと思うのですが。
電柱のトランス中の六フッ化イオウなんてのはこの温暖化係数が2万越えとか代替化合物中でも
最悪な物質で、これが破壊される技術が確立するまで保管しておくとか言ってるんだから、
核廃棄物並みにヤバイ物質が軒並み街中の至る所に突っ立ってる訳ですね。
まぁ、CO2も空気中の組成割合的には僅かとはいえ、これらはそれよりも遥かに少ない訳ですが、
数十とか数百年も大気中に存在するので、核物質の半減期を待つようなものです。
どうするのかなぁ。こんなの撒き散らしちゃって。海面どれだけ上がるのやら。
水の都東京とか呼ばれる日が先か、はたまた人類が死ぬ方が先か。
あ、忘れてました。その前に地震が来るんでしたね。
どちらにしろ埋め立て御殿は海の底に沈む訳ですな。

  • 最近日記の書いた日を良く見るとビンゴ化現象がおきているわけですが。

決して狙ってるわけじゃないんですがねぇ。
つまり、土日は―といっても先週の日曜は書いてませんが―暇だから書く。
月曜はその流れで書く。で、その後は面倒なので書かないといった流れでしょうか。
まぁ、日記なんて別に面倒とかそういうものではないとは思いますがね。
何が面倒かって、この打つ作業自体そのものが面倒なんでしょうが。
じゃぁ昔みたいに手書きしていたころはどうなんだってのもありますが、基本的に
手書き=思いを寄せながら書く
だと思いますので、書いてて楽しいんじゃないでしょうかね。
しかし、キーボード打ちだと自分のタイプスピードの限界と思考速度が殆んど重なるので、
だったら態々キーを打たなくたって思ってることを延々としゃべってそれを文書化してくれたら
どんなに楽かなぁとか思ってしまう訳ですね。
やっぱキーボード打つのってそれなりの労力を使うじゃないですか。
ましてやブラインドタッチなんてのは多分潜在意識バリバリで使ってるんじゃないですかね。
それがどう疲労に影響するのかは知りませんが。多分疲れるってことで。
作家には成れそうに無いですな。成る気も無いけど。

月曜に日記を書いて以来放置でした。ってか気づいたら土曜日でした、はい。
むしろそろそろ日曜っぽいんですが、気のせいでしょう。
いや、実は既に日曜だったりしました。
学校つまらんなぁとか思ってると日々過ぎるのが早いですねぇ。
逆に遅いように感じる場合もあるかと思いますが、別に休日に何をするって訳でもないので
とにかく終わらないかって事だけ考えてれば速攻で一週間なんて過ぎますね。
授業自体はつまらないとは思わないんですが、学校自体が嫌ですね。
集団で講義を受けるというシステムそのものが嫌気がします。
今の時代一人PC2台以上なんて殆んど当たり前みたいなものなんですから、態々学校なんかに
行く必要ないと思うんですけど。
何年も前から放送大学なんてのもありますし、時代錯誤もいいとこなんじゃないですかね。
未来には学校が無くなって、家で勉強が出来るようになると言って置きながら、とっくの当に
そんな技術は出来上がっている訳ですよ。
それを何故今の学校はやろうとしないのですかね。
アイデンティティー形成なんてんなものは、大部分が思春期に決まってしまうでしょうから、
他人との接点探しなんてものは小中でやれば言い訳で。実際問題不登校が目立つのは小学校
が多いんじゃないでしょうかね。
高校に至っては義務教育ではないのだから行きたくなきゃ行かなきゃいいんですから。
ましてや大学なんて義務ですらなんでもないのだから、集団でやる必要性なんて何処にも無いと思うのですが。
大学での友人知人なんて自分がレポートを仕上げるだけの道具のような表面上のみの薄い
存在だと思うんですけど。
果たして卒業後も付き合えるような人間に、ゴミのような人間の山から果たして何人探し
出すことが出来るのでしょうか?
片手が要るか要らないか程度の人数じゃないですかね。
研究など個人ではできないものだけ施設を利用してやればいいだけであって、何も狭苦しい部屋に
何十人、時と場合によっては100人単位もの人間を鮨詰にする必要なんて何処にも無いはずです。
大学も潰れる時代になっておりますので、コストを掛けてまで校舎維持や、環境美化などをする必要など無いと思うのですが。
そんな金が有ったら学生にPC貸し出しするなりし、ネットワークインフラ設備を整えるべきですね。
ホントこの国はやる事成す事が無駄で、抜本的改革なんてものを期待しても無駄であることは
分かりきっているのですが、どっかの大学やら無いんですかねぇ。
完全ネットワーク配信のみの授業スタイルなんて素晴らしいじゃないですか。
学生を集めるのにも役立ちそうなものですが。
完全配信のみじゃなく、ネット会議的なものでもいいかもしれませんね。
態々首都圏に田舎から出てくる時代はもうやめにしたほうがいいことにいい加減気づく、いや、
実践に移すべきです。
恐らくこの国は首都圏に大地震が来て、全てが無と成る迄は何も変わらないでしょうが。
となると、近いうちに大規模な改革が行われてもおかしくは無い訳ですね。
既にそのときは近づいているのですから。


地域分散型ネットワーク化社会になる日も近いかもしれません。
しかし、バカな人間は再び世界一危険な首都『東京』を生み出すのでしょうね。
それが今現在の東京の位置になる可能性は、決して高いとは言え無そうですが。

昨日の続きに当たるもの。

ケンカをして拗ね、当たる先が列を成した蟻。蟻を踏み潰すことによって何かを得られるかといったら
特別何も無い。つまりは子供が逃げ惑う蟻を潰して喜ぶのと同じ。
生産性は何も無いが、そこから何かを得ようと思っているわけではない。
蟻を潰すという行為自体が面白い、つまりは弱いものいじめの前段だ。
生命の尊さ云々なんて気にしている訳ではないが、大人は子供に虫でも小さいながら生きているなどと現を抜かす。
しかし、実際ゴキブリや蚊等といった特定の虫は毎回殺される運命にある。
蟻を潰すことに何も感慨を得られないということ、つまり、無感情な訳だ。
で、前回はお父さんの死。今回思い出したのは過去のこと。明確な対比がされている。
その対象が高々蟻ですら、大事なものの存在を失った今、死という現象に同一性を持たせながらも
階級をさりげなく示しているように思える。
つまり、父を殺すことにためらいを持つが、蟻を殺すことには無感情であるということは、
この話自体の命題的要素、即ち戦争に通ずるのではないだろうか。
翼手=蟻、父=小夜の周りの人間
と捕らえると実に分かりやすい。
つまり、前述のように、人間生存のためには殺す―死ぬという現象は同一性のものだが、
その格差には違いがあるということの表れだ。
人間第一主義であるが為に、例えば宇宙人との戦争、化け物との戦いといった話などが作られる訳で
あって、人間同士の殺し合いが正当化されたなら、それらの話は余り意味を持たないものとなるはずだ。
倫理的観念から人間同士の殺し合いは禁じられているだけであって、出来ないという話ではない。
そのいい例が戦争であって、文字通り人間の人間による人間同士の殺し合いだ。
戦争下では人間であるが故に持つ全ての特権、即ち人権が撤廃され、その為に殺されると
考えれば妥当である。
虫が殺されるのはそれが虫故に人権を持つことが根本的に無理であるからだ。
では、翼手はどうなのだろうか?
化け物とは言え、これまでの話より推測するに元は人間である。
彼らに人権は存在するだろうか?
面白いことに人間同士の抗争、つまり犯罪に勝つために正当防衛という権利が人権には含まれている。
襲ってくる相手ならたとえ殺してしまっても罪にはならない。
要は己の精神状態のみが今後の罪となるかどうかだ。
この話では、戦うこと自体に恐怖心があるということは表されているが、その様な翼手を殺してしまうが故に
悩むといったことはあまり明示されているように見えない。
そのことが蟻の踏み潰しに表れている気がする。