昨日の続きに当たるもの。

ケンカをして拗ね、当たる先が列を成した蟻。蟻を踏み潰すことによって何かを得られるかといったら
特別何も無い。つまりは子供が逃げ惑う蟻を潰して喜ぶのと同じ。
生産性は何も無いが、そこから何かを得ようと思っているわけではない。
蟻を潰すという行為自体が面白い、つまりは弱いものいじめの前段だ。
生命の尊さ云々なんて気にしている訳ではないが、大人は子供に虫でも小さいながら生きているなどと現を抜かす。
しかし、実際ゴキブリや蚊等といった特定の虫は毎回殺される運命にある。
蟻を潰すことに何も感慨を得られないということ、つまり、無感情な訳だ。
で、前回はお父さんの死。今回思い出したのは過去のこと。明確な対比がされている。
その対象が高々蟻ですら、大事なものの存在を失った今、死という現象に同一性を持たせながらも
階級をさりげなく示しているように思える。
つまり、父を殺すことにためらいを持つが、蟻を殺すことには無感情であるということは、
この話自体の命題的要素、即ち戦争に通ずるのではないだろうか。
翼手=蟻、父=小夜の周りの人間
と捕らえると実に分かりやすい。
つまり、前述のように、人間生存のためには殺す―死ぬという現象は同一性のものだが、
その格差には違いがあるということの表れだ。
人間第一主義であるが為に、例えば宇宙人との戦争、化け物との戦いといった話などが作られる訳で
あって、人間同士の殺し合いが正当化されたなら、それらの話は余り意味を持たないものとなるはずだ。
倫理的観念から人間同士の殺し合いは禁じられているだけであって、出来ないという話ではない。
そのいい例が戦争であって、文字通り人間の人間による人間同士の殺し合いだ。
戦争下では人間であるが故に持つ全ての特権、即ち人権が撤廃され、その為に殺されると
考えれば妥当である。
虫が殺されるのはそれが虫故に人権を持つことが根本的に無理であるからだ。
では、翼手はどうなのだろうか?
化け物とは言え、これまでの話より推測するに元は人間である。
彼らに人権は存在するだろうか?
面白いことに人間同士の抗争、つまり犯罪に勝つために正当防衛という権利が人権には含まれている。
襲ってくる相手ならたとえ殺してしまっても罪にはならない。
要は己の精神状態のみが今後の罪となるかどうかだ。
この話では、戦うこと自体に恐怖心があるということは表されているが、その様な翼手を殺してしまうが故に
悩むといったことはあまり明示されているように見えない。
そのことが蟻の踏み潰しに表れている気がする。